昭和42年8月10日 朝の御理解


 自分自身が助かる以外はない。自分が助かる。それは決して、人じゃないですね。自分自身が助かる。自分自身が助かっていませんとですね、人にまで不愉快な思いをさせねばなりませんのですよ。自分がイライラしておりましたり、不平不足の心を一杯持っておりましたり、自分が不安焦燥にかられておりましたりしたんではですね、おかげが頂けないという事もそうですけれども、自分だけではない。自分の周囲の者が助からんです。自分自身以外の者が、実に不愉快な思いをしなければなりません。
 折角十人なら十人の会合なら会合をしておりますのに、一人むっとしておったり、一人が何か焦燥、イライラ、イライラしたものを持っておったり、もう他の九名の者までがイライラしておったらもう助かりません。もう本当言うたら、大変なことなのですね、本というと。ですからどういう中にあっても、自分が助かっておられる。人じゃない。自分が先ず自分が助からなければとこう申します、ですから自分が助かるということの中にですね。様々なその助かるという事の要素と申しましょうか。いろいろありますね。
 先ほどから申しますように、不安である、もう助かっていない証拠である。不平不足を思う。もう助かっていない証拠。思うだけではない、不平不足を言うという事はいよいよ助かっていない。助かるという事も他に色々ございます。痛い、痒いがあるという事も、実際は助かっていないと思う。けれども本当に不安であり、不安、焦燥、不平不足を言わなければおられない、とったような事の中にあってもです、その事によってその人が助かっていくための精進がなされておるという事は尊いことである。
 これではいけん。これは自分だけじゃない。人まで助からない、とそこの不安である元をいわば、不平不足を言わなければならん元を断とうとする。そこの所を助かっていこうと努力をしておる事はです、これは人が見ておっても非常に尊いものに見えるですよ。もう誰が見てもああいう中にあって、さぞかし腹が立ちなさろう。ああいう中にあって本当に心配であろう。御心配でありましょうと言うような中にあっても、心配を断とうと努力する。不平不足を言わなければおられない中にあっても、はあこんな事ではと不平不足を断とうとする精進は尊いです。それをそのことを努力しておるという事は、非常に周囲の者も有難い。だから信心さして頂いておる者は、せめてそこの所、なされなければいけませんよね。
 例えていうならちょっとした事で不愉快で不愉快でたまらんといったようなときでもです、ね、そこの所を一生懸命精進して、はあこんな事ではと不愉快な根といいますか、不愉快の元というものをいよいよ追求して行って、よくよく見たり考えたりして見ると、本当に我侭である。自分の我侭どん言えるだんじゃない。自分というものを思えば、思うほど不平不足の根と言うものは消えていくのでございます。そういう精進をする。そこの所をどういう精進をするかろ言うと金光様、金光様なのである。心の中で金光様、金光様と唱え続けていると自分の心の中から不安が、焦燥が、心配が不平不足がなくなっていく。実はね、そういう事によって自分が助かっておるというその事が、おかげを頂く受け物になるのですから、どうでもここの所を精進しなければいけんのですよね。
 ですからその心配、心配しちゃならんと言うのではない。心配がある。けれども心配の根を断とうとする精進、だから心配する心で信心せよとこう仰っておられる。心配する心で信心せよ、不平不足が心の中に一杯。不平不足言わなおられん。そういう切実に不平不足を感ずるのですから、切実な不平不足を神様に持って行くのです。
 二、三日前、村うちの方が見えられまして、外では何回かお会いした事があるのですけれども、ここで正式のお取り次をさせて頂いたのは初めてでございましたが、問題が問題だけに誰かに聞いて貰ったらという気持ちがあられたらしいのですけれど、もうそれこそ、不平不足のあるだけ相手の方に対するところの、悪口のあるだけ、しまいには涙を流してから、涙流してもう、息急き切ってここでお届けされる。されてしまった後で、はあー先生おかげでこれですっきりしましたと帰られました。お取り次を頂くという事は、こんなに有難いことはない。自分のもやもやどうにも、こうにも、どこにも持っていきようがない。それを人に持って行かず、どこに持っていきようがない。神様に持ってこられた。初めての方です。持ってこられたという事が有難い。だから不平不足を言いなさんな。人の悪口を言うちゃ出来んと……?そしてこげな事は言うちゃならん。こんな事は言うまいと思われたことまで、ここで出されたんですけれどね、出すという事が有難いね。おかげ……?いうお取り次を頂くという事なのです。
 ですからね、あの本当にお取り次を頂く時にはですね、本当に赤裸々でなければ、本当におかげは受けられませんです。すきーとしません。こんな事まで言うちゃ恥ずかしか。こんな事まで言うちゃ笑われる。こんな事言えば先生が人間心使いなさるかも知れん、というようなですね。使ってもどうでもいいのですよ。問題は、自分自身が助からなければならないために、私はお取り次を頂かなければ。しかもそれが赤裸々にとこう思う。
 例えば皆さん、乗り物等に乗ってから、私、先日、昨日一昨日、小倉に参りました時、どこか便所があるなら止めてもらいたい。なかなかない。辛抱せよと。そこで一時、眠とこうと思うちから、眠ろうと思うけれども、便所に行きたいと思うと、どうしても眠れんです。辛抱した。もう帰る早々便所に走りこんでおかげ頂きますと後もすっきり致します様にです、それはもう出さなければすっきりはしません。眠ろうと思っても眠られん。心配があるけん。便所に行きたいのを堪えていたら、眠ろうと思っても眠れないのと同じ事。
 自分が助かるということ。人ではない。家内ではない。子供ではない。主人ではない。例えばもし私自身が助からなければ、私自身が助かる事の為に、その助かるという事の内容に色々ございます。不平不足を言わなければおられないような、不安でたまらん。そのために焦燥する。痛い痒いがある。けれどもそういう事の中から、人が助かっていくために、今日は私は特に不平不足を言わんですむということの精進をしなければいけません。
 さあ、朝のご祈念が有難いと思って帰った。帰ったらまーだ表も開けてなか。表ども開けとけばよかとに。早よ起きればとかとに、帰ったら、もう掃除も出来とらん。掃除ぐらいしとけばよかっに。だれかれさんじゃなか、わしは、あんたどんの為に参りおっとばい、ち。それに帰ってみればまだ寝とる。それを見る時に不平不足の心が起きるのだけれども、けれどもそこで不平不足を思うくらいならよいけれども、それを言うたら、お参りをした値打ちはなかじゃないか。なら思うことがいけないのだから、不平不足を思うてはならんと不平不足を思うてはならんと言うことを正してもらう。
 もうちょっとした事が腹が立ったり。ちょっとした事が不平不足に思ったり、言うたりしなければならない事が人間にはあります。大きな事はどっこいと受けとめられても、小さい事の場合、そういう事がよくありますけれども、それでは自分が助かっていないのであり、それでは実は、おかげを受けられんのだ。不平不足が心の中に一杯あったり、不安、焦燥が一杯あったのじゃね。だからそういう心で、神様へ向わなけなければいけんです。あるのです。不平不足を言わなければおられない。
 そこを心配する心で信心せよと仰せられる。不安である。腹が立つ。腹が立つその心で焦燥、あの神様に向かう。腹の立つすべてのものをお届けに持ってくる。御結界にお取り次を願う。願わして貰う事が、おかげを頂く元なんです。おかげを頂かなければならない。その事だけがお願します。お願しますではいかんのです。お願します。お願しますで神様はおかげを下さるのですけれど……心の中にそういう不平不足のあったりね、心配の心があったりしたんでは。 そうですよ。お願するから神様はここに聞いておかげはここにあるのですよ実際。所謂、おかげがあるもなきも我が心とはそのこと。だから私どもの心から、おかげが頂けない一つの元とか、要素といったものを一生懸命取りのぞくところの修行する。稽古をする。お取り次を頂く。そこに打ち込んでいくのです、ね。ですから自分が助かるためにね、先ず不平不足を言わんですむ私になる稽古。しかもそれがあっては、おかげが頂けないという事ですから、いよいよそういう心を取ることの為に精進しなければいけないでしょうが。
 そこで私どもがですね。不平不足の心が起ったり、不平不足を言わなければおられない時にはですね、教祖の神様は、そういうことを、こういう風に教えておられますね。信心はじめにはおかげを受ける。おかげ受けた時のことを思ったら、信心は楽と仰る。おかげを頂いて有難かったと思う時のことを思い出せと仰る。
 例えば、私か食事の事で不平不足が起ったとしましょうか。その時には、例えば二十年前なら二十年前、終戦直後の遅配、欠配といった時代にです、腹を空かしていた時分の思ってみたら、不平不足はいっぺんに消えてしまう。勿体のうして、あの時分におかげを受けておったという事を思うたら、心の中に起っていた不平不足はいっぺんになくなる、言うだんじゃなか。この様におかげを受けているという事が有難い事になるのですよ。
 今日は特に不平不足を言わんですむ、思わんですむおかげ。いや言わなおられない。思わなおられないという時には、言わば不健康、病気でおかげ頂いた人はあの不健康な時代のことを思うててみる。お金におかげ頂いている人は、本当に百円の金にでも不自由していた時のことを思ってみる。それこそ食物であれば何でも有難い勿体ないで頂いていた時のことをです。食物に不平不足の起った時には、それを思ってみる。そこから私は、不平不足はそれこそ霜に、煮え湯をかけるが如し。自分の心の中から、不平不足の心が消えてしまう。そしてそのだんじゃなかった。御礼を申し上げることじゃったと言うことになってくる。そういう心でおかげを頂いていく。おかげをキャッチしていかなければ、いけんのです。
 そこに私自身が助かっておる姿があるんです。私が助かるということが、不平不足を言うておる、思うておる時は助かっていないのです。助からなければいけません。それには先ず今日は不平不足の所だけを頂いてね、不平不足を言わんですむ、思わんですむおかげをそこの所を頂いていく稽古を話さしてもらいました。どうぞ。